''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

平常心これどうよ。

イメージ 1

(写真は柳生の里にある家老屋敷に展示されているものです)

人が普通に日常生活を過ごしていると色々なことがあります。時に腹立たしいことがあります。自分の気持ちを制しきれないほど嫌なことに出会ったりします。無神経な人に煩わされることが多い。そんなことに一々気にしてはいけないと思いながら、憤りが趨勢して、その濃度が高くなっていくのが自分の中でも分かります。自分が自分に腹を立てているのか知れません。

ぐっと、お酒でもあおって寝てしまおうと考える。しかし、次の日にまた持ち越してしまう。

こんな繰り返しに耐えうるには精神力を高めることしかありません。嫌なことは嫌なこととしても現実がそこにある。魔法でもなんでもない限り、無くなってしまうわけでもない。やはり、浅はかな凡人の苦悩かもしれません。多くの「至人」(究極の偉大な人)は、どうやってこれを克服してきたのか、疑問であり、興味があります。

かの柳生但馬守は、沢庵和尚に剣と禅の立場から多くのことを学びました。しかし、私のような凡人とは、域が違うためその全部を吸収することは不可能です。でも、その中からも学びえるものはないかと考えます。

世の中の多くに使われている言葉に「平常心」というのがあります。よく使われる言葉であり、馴染みがある言葉です。では、この「平常心」とはなんなのでしょう。簡単なようで難しい言葉です。

そんなの「いつものように」と言う意味だと言われるでしょう。

禅の言葉、禅語では「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)と言うそうです。「へいじょうしん」ではなく「びょうじょうしん」と読みがふられます。

高僧の問答から出た言葉から来ています。難しい話は他のサイトにお任せします。芳賀氏の解説によりますと「平常心とはああしよう・こうしようとする作意する心・思慮分別や、ああすべきでない・こうすべきであるという規範の意識などをきれいに棚あげした、文字通りの無造作な心、何ともない心のことである」と述べられています。(『禅語の茶掛 一行物』芳賀幸四郎著 淡交社) 

多くの高名な高僧が多くを述べられています。多くは仏教的な境地を踏まえたものが多いです。でも私は修行も積んでない凡人です。何かすっきりとするものはないか探しました。

利休居士の言われる中に「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて飲むばかりなるものとこそ知れ」というのがあります。

これは何かヒントになるかもとそう思いました。

「平常心」と言うだけなら簡単なことです。
でも「言う」と「する」では大きな隔たりがある。
言うのか簡単、やるのは至難です。

結論からすると「気にしない」ことです。
気にしないことにすら、気にしない。
気にしないと思うことすら思わないこと、何があろうとなかろうとも、いつも通りの自分の状態や気持ちを持ち続けることでしょう。

考え方は少し違ってましたけど、回りまわって、いつもの「平常心」と同じ使い方に結論的になりそうです。プロセスは大きく違いましたけれど、そうこうしている間に気持ちが治まりました。嫌なことはいつもある。それがあると思う気持ちすら、心に思わないで過ごせることが茶道や禅にもつながるんでしようね。

この道も「長安」に通じています。

「ありがたい」という「感謝」という名のスパイス振りかけてご飯を食べるそれもありですよ。

「気」が「楽」になれば幸せなのかもしれません。心の窓が開かれた気持ちです。

今日もありがとさんです。