最近の刑事ドラマでも、取り調べにカツ丼食べるシーンが無くなっています。
何か人情的な刑事さんの取り調べみたいなものが、無くなって来たような気もします。
理詰めで、被疑者から犯行動機や殺意など、状況証拠を含めて、犯人の自白をとるようななっていますね。
ですから、そんな緊迫した現状で食事を提供することはありませんし、飲食代は、誰が出すのかも、いろいろと複雑になっています。
でも、あの刑事ドラマで、カツ丼食べるシーンは、昭和の人間にはあって貰いたいシーンです。
ドラマ見ていて、急にカツ丼食べたくなります。
我が家でも、家でトンカツを揚げて、カツ丼にするのは、基本無理です。
小さな子供も居ますので、揚げ物は、基本やらないようにしています。
とは言え、唐揚げとかは、何度かやっています。
私の特製の唐揚げを作ると、6歳児のゆうゆうが、大変喜びます。
熱々の唐揚げを家で食べられることに驚きます。
それも、唐揚げの周りも、しっりとよりも、サックリ系が好きなようです。
熱々しかそうなりません。
時間が経つと、どうしてもしっとり系になりますからね。
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関西のカツ丼と関東のカツ丼は違います。
関東のカツ丼は、基本煮込みで玉子で仕上げて、ごはんの上に盛ります。
関西では、トンカツ煮込まずに、ごはんの上に盛って、仕上げることが多いです。
ですから、衣もサクサクです。
関東の煮込んだカツ煮のカツ丼も好きですけどね。
最近では、取っ手付きの小鍋に割り下入れて、たまねぎ入れて、最後にトンカツを入れて、玉子を溶き入れて、蓋をして蒸して、ごはんの上に乗せるスタイルも定着しています。
ただ、トンカツの衣が、サクサクしていないでしょう。
どちらにしても、カツ丼の旨味は、1つではないと言う事です。
モノの評価に関しても、1つではないものです。
毎日新聞13日の土曜日朝刊の今日の本棚の所で、『利休の黒 美の思想史』(尼ヶ崎彬著 花鳥社)の評論家 三浦雅士の評に目が行きましたね。
茶の湯の起源は、現代で言うならワインパーティだと言われています。
やはり、驚きですね。
私の中では、結びつきませんね。
特に利休が求めた侘び寂びの茶には、何か違和感を覚えます。
3畳未満の小さな茶室で主客の交わりには、到底パーティという言葉に違和感を覚えますね。
その後も、いろいろと本の内容の紹介が進んでいますが、その中でも「武野紹鷗の開眼」「本歌取りの思想」、そのまま「茶の湯」の核心に導入したのが、紹鷗だと話は魔法の様に進むみたいですね。
「茶の湯」の核心が「美の思想」が潜んでいたからだと綴られている。
尼ヶ崎氏の説明は強い説得力を持つと評価されてるようですね。
豪華から質素への転換があったのは、事実でしょうし、また、利休の質素な茶が、また豪華な茶に移っているのも事実だと思います。
利休の茶の核心を、今の茶道から垣間見ることは出来ませんが、「茶の湯の核心」と言う言葉には、何かそそられます。
男がトンカツ、カツ丼が好きなのは、そうした男性も食に対する核心だったのかもしれないと、ふと思います。
私を含めて、男性はトンカツ、カツ丼が好きですね。
好きなら好きで、好きな理由があるはずです。
不思議な食べ物だと思いますし、無性に食べたくなります。
カツ丼は、トンカツと、玉子の融合であり、そこに丼ぶりと言う、食のスタイルといい、ベストな食べ物かもしれませんね。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。