''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

利休忌 「茶道四祖伝書」から見える謀略

天正19年2月28日(1591年4月21日)、秀吉公の命により、利休居士が切腹を賜ったとある。
千利休居士は、わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも言われるとある。(Wikipedia参照)
400年経っても、未だに解明されない利休居士の死です。


豊臣政権にあって、公儀事・政治事は大納言秀長公に、「内内の事は、利休居士(当時宗易)に相談されよ」と、大友宗麟大坂城を訪れた際に、秀長公本人より言われたと伝え聞きます。
弟秀長が存命中には、利休との豊臣政権のバランスが取れていたように思えます。
 天正19年(1591)正月22日、秀吉の弟 羽柴秀長が没した。
これによって、バランスが崩れたことになります。

直接な原因は、木下祐桂の讒言でしょうね。
事務方の木下祐桂は、三成とも通じていたでしょうね。


学者の先生方が、いろいろと原因を研究されています。
このことが本当の発端の原因なら、つまり、石田三成派による政治的謀殺説」と言う感じになりそうですね。


いろいろあり過ぎて、真実は分かりません。
でも、原因の発端は、なんでも良かったのでしょう。
豊臣政権内での、力のバランスが崩れたことによって、直接秀吉公と利休の関係が修復できなくなったのでしょう。


本当は、誰かに止めて貰いたかったはずです。
わび茶の完成者として、茶の湯の道でも、妥協できなくなったこともあるかもしれません。
素人が無用な考察をすることもありませんが、利休と言う人物に興味がありますね。


利休の娘のおかめに送った文が印象的です。
利休居士辞世の和歌「おかめにおもいおく」より。


一人の父として、娘に送った最後の言葉だと思うと、感慨深いです。
父・田中宗易としての気持ちですね。

亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年10月29日) 天正4年(1576年)頃、後に利休の養子となる少庵を婿とし、少庵との間には宗旦をもうけたとされます。
血の繋がりのない少庵が、千家の本流となり得た理由がそこにあったわけですね。
これが本当なら、今時で言うなら、「千家のせどり」って言うところでしょうかね。


私にも、8歳の娘が居ます。
おこがましいですが、同じ父として、娘は特別な存在かもしれません。
嫁にも、父は娘に弱いと言います。
本当の事で、口答えする術もありません。


わび茶の完成者としての利休でなく、同じ娘を持つ父として、人間としての興味があります。
道を極めるモノとしての利休と、父としての利休、いろいろな葛藤もあっても、自分の道を曲げなかったことに、偉大な聖人であった思いで、毎年の今日を迎えています。
本人に聞いてい見ないと、本人に聞いても本当の死の原因は分からないはずですね。


天下人としての秀吉公も、誰かに止めて貰いたかったと思うばかりです。
また、ある意味、天下の趨勢が、豊臣の滅亡と、徳川政権への移行の起点になった事件だったかもしれません。
家臣を含めて、人心が、秀吉から離れた気もします。
静かに、手を合わせたい気持ちです。


親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。              
ありがたいことです。            
            
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。              
ありがたいことです。              
              
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。              
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。              
ありがたいと感謝です。      

 

利休の「り」       

『茶道四祖伝書』の「ち」
              
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