''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

数の子は音を食らうとは。

陶芸、書画、篆刻、古美術の鑑定など、多芸多才にして、食を芸術までにした比類なき美食家の北大路魯山人は、その著書「魯山人味道」(北大路魯山人/著 平野雅章/編)の中で「数の子は音を食うものである」という一節が好きですね。

私も数の子は好きです。
歯ごたえ、歯ざわり、何とも言えずいいですね。
味よりも、出汁の味でしょうね。

音を食らったり、耳で食らうというと、意外な表現です。
しかし、それはそれで意味があっていいですね。

私は、炒った豆が大好きですね。
特に丹波の黒豆を炒ったものが好物です。
家族会では、丹波篠山に行くことが多いですからね。
その帰りは、地酒と炒り豆が楽しみです。

硬いながらも、何とも歯ごたえがいい。
炒ったことによって、香ばしい香りも楽しめます。
豆は、耳と鼻で食うと言えますね。

不思議な表現です。
仏法世界にも、観音様も意味から言えば、音を見ると言えます。
音は聞くもの、見るものとは違うとは言え、人の救いの声に、娑婆世界を自由に動かれます。

法華経の一節なら、「娑婆世界に遊ぶ」でしょうね。
遊んでおられるわけでなく、勤めをされていても、遊ぶと書かれる。
不思議な表現が仏の世界にはあります。

昔に「トロン」という映画がありましたね。
音が視覚として見える世界です。
この世の中には、見えていそうで見えていないものや、蛇のように匂いを舌で舐めて感じる動物もいます。

この世の中自体が、まるで意味難解な禅語のような出来事も多いです。
不思議なことが多いです。
イメージ 1

好物の数の子を盛り付けました。
天に鰹節をあしらっています。
これで、熱燗はたまらんです。

唇で温度を楽しみ、耳で音を楽しむ。
舌で味を楽しみ、脳が酔いを楽しむ。

日々の慰労酒、この一杯の為に一日働いたのかもしれません。
至福の時間です。

心の三毒も、その時ばかりは、どこにもいません。
安穏に暮らせることが一番の幸せです。
独り手酌の情感があります。

小さい九谷の猪口に、徳利で注ぐ。
大きいのでなく、小さい猪口で、面倒だけど、その時間がいいです。
時間を過ごしている感覚になりますね。
ちょっぴり大人の時間かもしれません。

酒器にこだわる人の気持ちもわかります。
弘法さんの市では、もっぱら猪口や酒器やお皿に目が向きますね。

物事には、すべてに亘って、その「間」というものがあります。
笑いも「間」なら、スポーツも「間」です。
その一呼吸が「間」なんですね。

自分と向き合う間が必要です。
しゃべらず、語らず、自分との語らいです。

そんな時、数の子の食べる音は、脳に心地よく感じますね。
胎内の心音にも似たような心地よい雑音です。

今日は休日でした。
神戸に家族会の参加です。
この記事は、後日書いてみたいですね。

1日の時間をたっぷりと過ごせた気がしますね。
ありがたい仏縁に感謝です。
ありがとさんと、手を合わせます。

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、妙~な雑音にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。