''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

サッポロ一番 会津喜多方醤油ラーメンを食べてみました より。

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雨音のしている京都伏見の地です。
少し前から雨が降っています。
何やら電話がかかって来て、大阪では止んだようだと言われました。
やはり、京都と大阪の地には、距離が存在します。

 

先日、サッポロ一番 会津喜多方醤油ラーメンを食べてみました。
平麺のちぢれ麺が特長です。
会津と言う事で、時代劇とタイアップしたサッポロ一番のご当地規格ラーメンです。

 

会津と言えば、藩祖・保科 正之(ほしな まさゆき)公が、礎を築いたことでも、有名です。
その遺訓を守ったが故に、藩として朝敵の汚名を受けました。
保科 正之と言えば、3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐して、幕閣での地位に重きをなした人物でもあります。

 

つまり、2代将軍秀忠が側室に生ませた子です。
正室お江与の方(俗に言う江姫)の嫉妬が凄まじいものだから、こっそり信濃高遠藩主保科家へ養子に出されてしまったという数奇な生い立ちです。

 

家光もその存在を知らなかったと聞きます。
しかし、大変可愛がったと言う事です。
家光公は、親子や兄弟の縁が薄かっだけに、本当に信頼を寄せていたと思われます。

 

今月12月は、私のブログのサブテーマがあります。
それが、赤穂浪士です。
12月は、いろんな事を書き記しました。
会津と言えば、上杉の領地・米沢に向かうには、会津を通らない入る事ができません。

 

会津が、地理的には、要所であることは否めません。
東北に対する要で有った為、親藩の保科公を配したことになります。

 

極月半ばの14日、吉良邸討入に失敗する可能性はありました。
吉良殿は、いつもは、屋敷に居りません。
どこぞにお泊りされている訳です。
上杉邸かもしれません。

 

別れの茶会をした夜は、在宅しています。
その日が、討入の日になった訳です。

 

茶会をせずに、一目散に米沢の地に、避難していれば赤穂浪士の討ち入りは無かったかもしれません。
私の中では、米沢に入る会津辺りで、襲撃されたと思います。
その代わり、首級を上げる確率が、ぐっと減ります。

 

47人で、行列を衝撃しても、なかなか成功しません。
囮の列もありますからね。
それだけに、確実に吉良邸に居る日の情報を捉えて、討入したのは、内蔵助を策略が当たりました。

 

米沢への帰路を襲撃するとなると、昭和38年片岡千恵蔵主演の『十三人の刺客』(工藤栄一監督)を彷彿とさせます。
あの映画も凄かったですね。
クライマックスである、罠を仕掛けられた木曽落合宿での13人対53人の殺陣シーンは、迫力がありました。(ウィキペディア参照)

 

あんな罠を仕掛けないと、すぐに逃げられてしまいます。
領地米沢に入ると、もう絶対に衝撃のチャンスはありえません。
当時の上杉家の当主・綱憲は、討入の2年後に病気を理由に家督を長男の吉憲に譲って隠居したとあります。(ウィキペディア参照)
父親と息子の二人を相次いで、なくしたのは応えたと思われます。

 

しかし、この綱憲の孫娘の子供が、有名な上杉の中興の祖・上杉鷹山です。
つまり、鷹山公も吉良家の血筋です。
やはり、名吉良の君の血筋だったと思われます。
こう思われると、吉良の殿さまが可哀そうになります。

 

カップ麺の文字、喜多方と見ると、百人一首の和歌を思い出します。
ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ
紀友則(33番) 『古今集』春下・84

 

花が散ると言うのも、何やら内匠頭の辞世の句を、イメージさせます。

 

それ以前に、「きたかた」と「ひさかた」は音のイメージだけですね。
音の響きも、意外に大切ですよ。

 

吉良殿は、何故、恨まれて殺されたのか、全く理解されないままの黄泉の旅立ちです。
途中の死出の山に、梅を呑む茶屋があったのか、なかったのか、それすら分からないままの急いだ旅立ちでしたからね。

 

何が正義か悪か、こうして見ると、ちょっとした事の違いしかなかったように思えます。
人生の山あり谷ありです。
今日は、谷がありました。
しかし、無事に帰って来れました。
ありがたい観音様と地蔵様の仏縁のお蔭です。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
それを願うばかりです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事でありますようにと念じます。

 

最後まで、スープの絡んだような平ちぢれた麺の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。