''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

内蔵助の母方親族 池田 光政(利隆の長男)

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赤穂藩 筆頭家老 大石内蔵助良雄 血縁関係 の「け」 

 

 

池田 光政(いけだ みつまさ)

播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。

(慶長14年4月4日1609年5月10日)~天和2年5月22日1682年6月27日))

従四位下、左近衛権少将。正三位。

 

姫路藩池田利隆の長男母は2代将軍徳川秀忠の養女(榊原康政娘)・鶴姫

当時の岡山藩池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。

慶長18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。

 

同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康は光政の態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという(『率章録』)。

 

元和2年(1616年)6月13日に父の 利隆が死去した。このため、6月14日に幕府より家督相続を許され跡を継いで42万石の姫路藩となる。しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取32万5,000石に減転封となった

 

鳥取藩主となった光政の内情は苦しかったという。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だったところから藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。このため、家臣の俸禄は姫路時代の6割に減らされ、下級武士は城下に住む場所が無いので土着して半農半士として生活するようになった[注 4]。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた[注 5]。元和6年(1620年)、幕府より大坂城城壁の修築を命じられた。

 

元和9年(1623年)6月、2代将軍徳川秀忠の上洛に従って京都に入るが、未だ無位無官であったため、同月25日の秀忠の参内には供奉し得なかった。続いて7月に入ると遅れて上洛してきた世子家光も入京し、7月27日に家光が将軍宣下を受けて第3代将軍になると、8月3日に15歳で元服し、このとき当時名乗っていた幸隆(よしたか)を、3代将軍徳川家光の偏を拝受し光政と名乗った。

同月6日、家光の参内に先立って従四位下・侍従に叙任され、供奉の一員に選ばれた[1]。その後、寛永3年(1626年)8月の家光上洛にも従い、近衛少将に叙任された。

寛永5年(1628年)1月26日に本多忠刻の娘勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた

 

寛永9年(1632年)4月3日に叔父の岡山藩池田忠雄が死去し、従弟で忠雄の嫡男光仲が3歳の幼少のため山陽道の要所である岡山を治め難いとし、5月に光政は江戸に召しだされて、6月に岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった

以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。

 

光政は岡山城の鎮守として東照宮(現在、玉井宮東照宮)を勧請しており、これは日光東照宮が地方へ分社された全国で最初のものであったが、他の藩でもこれにならって次々に東照宮の御勧請を行い、その数は一五〇社にのぼったと言われている。そして東照宮造営は藩主池田光政の大願であった。

 

社殿造営にあたり家老池田出羽守を大奉行とし、徳川幕府の作事方総大工木原杢允を大工棟梁に充て、備前藩の作事総大工の地位にある横山三郎右衛門は小工として次席に置くなど、人員配置にも異常の配慮の払われた神社の造営であった。

 

『池田家履歴略記』正保二年二月の記事中に

「去年(正保元年)東叡山の開山天海増正を以て東照宮備前に勧請し、城郭の鎮守と祝し奉らんことを将軍家(徳川家光)の御内聴に達せられしが、今年六月一日僧正より返答あって、同二日(池田光政が)酒井讃岐守(大老)の許へ参り給い、御勧請の事仰せあれば、(酒井は)貴殿の志は尤なれども、以後国々残りはなく願はれ、心にもあらぬ事に成行き候はんは如何也、さればいかに軽く御造営然るべしと答られける。烈公(光政)大に悦せ給い、やがて備前に帰られ其用意あり、七月九日諸役を命ぜらる。(カッコは注)」と」あった。社地は当時の上道群門田村幣立山で、ここには古くから玉井宮が鎮座し八幡宮(地元の氏神)として崇敬されていたが、この宮を地続きの南部の低地に移し、その跡へ大がかりな東照宮(現在、玉井宮東照宮)の造営は行われたのである。

 

儒教を信奉し陽明学熊沢蕃山を招聘した寛永18年(1641年)、全国初の藩校花畠教場を開校した。寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として閑谷学校備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。また、産業の振興も奨励した。

 

このため光政は水戸藩主の徳川光圀会津藩主の保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。三名君と称された人物は個性的な人間が多い。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学心学を藩学として実践した。この陽明学は自分の行動が大切であるとの教えで、これを基本に全国に先駆けて藩校を建設、藩内に庶民のための手習所を数百箇所作った。後に財政上の理由で嫡男の綱政と手習所存続をめぐって対立した。のちに手習所を統一して和気郡閑谷学校を造った

光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、当時金川郡において隆盛を極め、国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。このため備前法華宗は壊滅している。こうした光政の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山32万石が安泰であった。

 

また、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在、岡山名物の料理となっているちらし寿司の一種・ばら寿司の誕生にも光政の倹約令が絡んでいるといわれる。倹約令の一つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。

 

寛文12年(1672年)6月11日、光政は藩主の座を嫡男の綱政に譲り隠居した。

光政はこのとき、次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与した

 

光政は5月22日、岡山城西の丸で74歳でこの世を去った。

光政の墓所岡山県備前市吉永町和意谷池田家墓所にある。

ウィキペディアWikipedia)』参照