''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

魯山人の器(うつわ)

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        『魯山人陶説』 北大路魯山人 平野雅章編 中央文庫


北大路魯山人といえば、今や知らぬ人のいないほど有名な人物でしょう。ある人には美食家として、ある人には書道家として、またある人には陶芸家としてその名前を知られているマルチな芸術家と言えます。
もちろん、多く諸兄によって数々の解説書であったり、作品の紹介であったりと魯山人に関する書物は多いです。しかし、その意を正しく伝えてるものも有ればそうでないものもあります。

魯山人の器(うつわ)には、すばらしい物が多くあります。あえて器と書いたのは、そこに料理というものがあって始めて器があるからです。陶芸は陶芸単体を楽しむ芸術作品であるが、魯山人の陶芸は、常に料理を意識しているように思われます。(あとがきでも述べられています)

魯山人36~37歳頃に「大雅堂芸術店」(後に「大雅堂美術店」と改称)という古美術品を商っていた。ここが魯山人の基点の一つであると思う。売物の古美術品の皿に平然と料理を盛る。普通考えつかないことでやりようと言える。何十万や何百万円の皿に料理を盛る。使えば洗わなければならないし、使えば使え程壊れる可能性がある。普通は観賞用に飾るだけでしょう。

しかし、本当の器は使わなければ死んでしまう。水につけてやれば本来の色合いを取り戻し、使えば使うほどにそれぞれの風合いが益してくる。シミも付く、それは「雨漏り」と呼ばれる持ち味になり、作者が意図して作れるものではないです。

長年使えば欠けるし、壊れる。当然です。しかし、昔の茶碗にも継いだものが多くあります。金と漆で修復します。それも持ち味です。

魯山人の陶芸の基本に返りたければ、「『魯山人陶説』北大路魯山人 平野雅章編 中央文庫」を呼んでもらいたい。魯山人の考えていたことが直接に知ることができます。これは三部作になっていて、「魯山人味道」「魯山人書論」と美食家、書家としての魯山人を記しています。大変興味深い作品です。すべて、平野雅章編の作品です。

平野雅章氏ご存知でしょうか?

料理の鉄人」という番組に初期の審査員として出演されていた人物です。白いひげがトレードマークかもしれません。料理に関する見識はすごいものがあります。長い間魯山人の近くにいて、愛弟子と言うより、ちょうど秘書のような、なくてはならない存在です。最後まで世話をした人物です。

魯山人は、人間的には気難しい魅力のない人のようでした。最後まで長く近くで付き合っておられた方は大変少ないです。結婚暦も離婚暦も幾度となく、折りに触れて友人知人とことごとく離別して行きます。人としての気遣いが少ない方でしたのでしょう。人物としては至人ではなかったようです。ところが作品は、素晴らしいものが多く残っています。人の出来と芸術の出来は、比例しません。別のところにあるのかもしれません。

素晴らしいものもいっぱい残っていますが、出来の良くないものも多くあります。魯山人の作品すべてがすごい訳ではありません。
何ゆえか、轆轤(ろくろ)ひいたりする基本的なことは人にやらせています。自分は絵付けや書を書いていくのが、主だった仕事のようです。

よく書かれてる作品に「福」という字を染付皿があります。集中して午前中に何十枚、時に百枚単位を仕上げていくと言います。一枚一分にも満たない書き殴るような作業です。

平野氏は、天才の器の大きさであり、常人とは違うと述べられています。ピカソが何万枚もの作品を残しているのと同じだといいます。魯山人の陶芸作品数は、何十万枚作品以上でしょう。すべてが、傑作とは言いがたいように思えます。

魯山人の作品に「銀彩」という器が有ります。銀色をベースに玉虫色というのか、金属的な持合の作品です。これは備前焼きの失敗作に釉薬をかけて焼き直したものです。職人がこんなもの売物にならないと言っています。当然の考え方で正論です。

しかし、天才にかかればこれがすごい作品になります。大変見た目にも抵抗がある器ですが、料理を盛るとすばらしい作品になるんです。ビックリです。料理を盛り付けることを頭に入れて作品を作っているんでしょうね。

魯山人に関する原点である故に、そこにはウソも書いてあります。
轆轤(ろくろ)をひくのが苦手で人にやらせていました。そのことは、多くの人の証言にも出て来ます。魯山人轆轤と呼ばれた陶芸家もおいでした。最後には魯山人の作品であるしるし「ロ」も魯山人でない陶芸家によって記されていることも事実のようです。

でも、魯山人は、作品というのは一から作るのが陶芸家で、絵付だけする芸術家を非難しています。矛盾の多い主張です。あえて平野氏は書かれているのだと思います。そう魯山人が言っていたのですから仕方ありません。

でも、そんな事情があるにせよ。魯山人作品がいいものであるのは事実です。時に魯山人ワールドに引き込まれます。料理人としての素養があり、焼物に対して独自の自論と既成概念にとらわれない「自分」というものを持っていたこ
とに感銘を受けます。

ここ何百年の陶芸作品は、何か人の真似を続けて来た感があります。しかし、安土桃山時代は、まったくオリジナルの世界観がそれぞれに感じます。それも、この本の中で多く解説しています。

たかが器(うつわ)されど、器でしょうかね。料理あっての器、器あっての料理でしょうね。

それだけでは、価値がないものでも何かがあって価値が上がるものもあるように思われます。

人もそうなのかも知れません。
心配しないで下さい。誰かに見守られていますよ。
必要とされているから、生きているんです。いや、生かされているんです。

この本に出会えたことに「感謝」です。
最後まで読んで頂いたことに「感謝」します。