''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「心配りと心入れ」 平野雅章編

私の愛読書の中に、『日本の食文化』(平野雅章著 中公文庫)があります。
平野雅章氏は、料理の鉄人の審査員として有名な魯山人の愛弟子と言われた方です。
髭の上品な老人ですね。

時々、テレビに雑誌にと顔を見かけられた方も多いと思います。
実際には、魯山人の秘書とも言うべき方ですね。
この方を介して魯山人の物の考え方も分かり易くなっています。
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『日本の食文化』の最初の目次が、「心配りと心入れ」という項目です。
意味するところは大きいです。

お釈迦様の最後の食事は、鍛冶屋のチュンダの供養です。
スーカラ・マッダワと言う干した豚肉ともキノコの事とも言われています。
とりあえず消化のよくないものだったようです。
この食事がお釈迦様の最期の食事になります。

この食事は、他の者では消化できないので食べてはならない。
残ったら地中に埋めて処分するように言われたようです。
お釈迦様ですから、この食事が最期の食事になる事は当然判っておられます。

しかし、チュンダが自分の出した食事がもとで、お釈迦様が入滅された事を聞くと、後悔して嘆き悲しむと思われる事を懸念されて、そばにいた比丘に次のように伝えられました。

お釈迦様が悟りを開かれたときの最初の食事と入滅前最後の食事、この二つの食事が、あらゆる供養の中で最上のものであり、最大の供養があると言われました。

最後の時を前に、行き届いた「心配り」であると著者は記述されています。
慈悲深い配慮です。

茶の湯では「心入れ」を大切にすることと書かれています。
心入れとは物やわざに心のこもることであり、「思いやりの深さは、思い取ることの深さ」であるとわかりやすく記述されています。

食に対する著書で、最初に心配りや心入れの気持ちの精神的な記述から始まる書物も少ないと感じています。

食が旨いのまずいのと言う前に、食に対する考えの根本は、人に対する気遣いであると考えます。

偉そうなことは十分に分かっていても、それをどう実践していくのかは難しいです。
人に対する気遣いは相手の身になって考えること、相手の立場になって考える事も理解はしていますが、分かった気になっているだけです。

どこまでも奥が深いです。
かと言って、過ぎるものも気遣いではないように思います。
そのあたりが難しい。

著者は、台所のたわしやフキンを例に上げて説明されています。
著者の言う気遣いとは、「頭がよくて、思いやりがあり、しかも、自分をころせることでないと、心配りや心入れは完全とはならない」と括られています。

自分をころすと言うところが、ぐっと来ましたね。

凡人としては、どうしても、これだけ気遣いをしましたという気持ちがもたげて来ます。
手に入りにくいものを手に入れ、時間をかけて、手間隙かけているのに、それに気づかないときは、もっとそう感じるはずです。

これだけ気を使ったのにと感じることは無意味です。
ダルマさまと武帝の「無功徳」の話を思い出させます。
自分をころし切れることも、見返りを求めない事も必要です。

自分自身にも言い聞かせます。
食事を作った者(特に主婦)としては、どうしても、「美味しかった」の一言を求めたがるものです。

日常の生活の中で、仏法世界のみ教えを、茶の湯の心を実践する事は、なかなか容易ではないと思います。
でも、どんなところにも、どんな時にも、応用が効くはずです。
ささやかなことに、喜びを感じる気持ちを持ち合わせることは、目線を下げることのように感じます。

まずは、ありがたいと感謝の気持ちを持つところから始めたいと改めて思います。

最後までお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。