''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

伏見稲荷大社の紅葉模様より。

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伏見稲荷大社前をよく通ります。
JR稲荷の目の前が、伏見稲荷の大鳥居です。
参道を綺麗改装してあります。
昔は、人と自動車の混在の参道でしたが、今では人の参道になっています。

 

紅葉の木も植えられて、昔と違った秋の紅葉を楽しめます。
観光客が、この大鳥居をバックにして、写真を撮られています。

 

私もこの大鳥居に来ると、いつも天を見上げます。
私の師匠が、よく言われていたことかがあります。
何やら知り合いの知り合いの話に寄れば、ある方がこの大鳥居を潜られようとすると、天から弘法大師がゆっくりと降りられて来て、この稲荷山のどこかの滝の近くで修業をするようにと、お告げがあったと言われるのです。

 

今でもこもられていることでしょう。
稲荷山は、霊山です。
私には、納得できる話です。
兎に角、稲荷山には不思議な伝承が多くあります。

 

江戸時代に書かれた書物に耳嚢(みみぶくろ)』があります。
耳嚢(みみぶくろ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本・南町奉行根岸鎮衛が、天明から文化にかけて30余年間に書きついだ随筆です。

 

この中にも、伏見稲荷の事がいくつか書かれています。
それでも、何か納得してしまう自分がいます。
弘法大師と、稲荷大社の手打ちの話も過去にしています。
東寺造営に、稲荷山の神木を使ったところ、神の怒りの触れたようです。

 

そうした不思議な力は、存在します。
それにしても、大鳥居に弘法大師さんが、降りて来られることもないように思えて、しかたないです。
未知なるものも、この世の中にはあります。
見えないから、解らないから、間違っているとは言えません。

 

世の中には、見える法の世界と、見えない妙の世界が、存在します。
それらは、表裏一体となっていると確信しています。
ちょうど、水面みたいなものかもしれません。

 

水の上から、水の中は全て見えません。
時に見えることもありますが、それは浅瀬水だけです。

 

海水に至っては、水の中でも、もっと深いところは全く見えません。
海水の中から、海上の様子はみえません。
うっすら光の加減が分かるくらいです。

 

金剛界胎蔵界の世界も、仏様にはどちらも行き来できる見える世界でしょうね。
二つの世界も水面のように、表裏一体のものかも知れません。
弘法大師も、兜率天(とそつてん)で、弥勒菩薩様がこの世に次の仏様として56億7000万年後の出現に備えて、ご修行のされているのかも知れません。

 

この世はまだまだ修行が必要です。
出来れば、気軽に楽しめる修行がいいです。
朝起きで仕事して、帰って晩酌しながら、手酌の慰労酒です。
こんな楽しい修行なら、毎日でも出来ます。

 

そう思えると、すべてが楽になります。
日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁です。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、歩いていける散歩道の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。