朝からどんよりとした天気の京都です。
やはり、梅雨なんですね。
週末近くから天候は雨模様です。
台風も近づいているみたいですね。
やはり、梅雨なんですね。
週末近くから天候は雨模様です。
台風も近づいているみたいですね。
しばし、梅雨気分が続きます。
とは言え、草木にはありがたい恵みの雨に違いないです。
とは言え、草木にはありがたい恵みの雨に違いないです。
京都市内のとある場所、寺院と言うより城か砦のような城壁のある場所があります。
直線にして1辺700メートル以上の城壁に取り囲まれた寺院があります。
そんな中に、紫陽花が咲いています。
何ともそのアンバランスがいいです。
そんなに攻め込まれることを意識して作られた寺院があります。
戦場の中に忌めような気分です。
直線にして1辺700メートル以上の城壁に取り囲まれた寺院があります。
そんな中に、紫陽花が咲いています。
何ともそのアンバランスがいいです。
そんなに攻め込まれることを意識して作られた寺院があります。
戦場の中に忌めような気分です。
外から見ると、そんな風には思えません。
でも、よく見ると寺院の外には堀が配置されています。
これは、どう見ても城郭そのものです。
でも、よく見ると寺院の外には堀が配置されています。
これは、どう見ても城郭そのものです。
京都には、こうした不思議な景色がひっそりとあるんです。
一般の観光客には、公開されています。
一般の観光客には、公開されています。
幕末の攘夷か開国か、そんな議論の中、多くの命が散って来ました。
戦火によって、多くの人が路頭に迷ったのも、京都です。
孝明天皇の信頼厚かった会津が、朝敵の汚名を記しています。
意味のない戦いの果てに、近代日本の船出です。
戦火によって、多くの人が路頭に迷ったのも、京都です。
孝明天皇の信頼厚かった会津が、朝敵の汚名を記しています。
意味のない戦いの果てに、近代日本の船出です。
それでも、花は春が来れば花を咲かせています。
悠久の歴史の中で、人の暮らしとは別に、自然は自然の摂理を過ごします。
自然の力は偉大です。
そう思わざるを得ません。
悠久の歴史の中で、人の暮らしとは別に、自然は自然の摂理を過ごします。
自然の力は偉大です。
そう思わざるを得ません。
自然の前では、人の力は非力です。
そう思い中、花は自分の存在をひっそりと示します。
こんな暮らしもいいですね。
そう思い中、花は自分の存在をひっそりと示します。
こんな暮らしもいいですね。
鬼平こと長谷川平蔵宣為の父・宣雄の愛用の杖に、「和光同塵」の4文字が記されているのを思い出されます。
その意味を調べると、自分の才能や徳を隠して、世俗の中に交じってつつしみ深く、目立たないように暮らすこととあります。
「和光」とは、才知の光を和らげ、隠すことであり、「塵」とは、まさしくちり芥ののちりのことです。
その意味を調べると、自分の才能や徳を隠して、世俗の中に交じってつつしみ深く、目立たないように暮らすこととあります。
「和光」とは、才知の光を和らげ、隠すことであり、「塵」とは、まさしくちり芥ののちりのことです。
転じて、俗世間で言う「同塵」は俗世間に交じわる、または合わせることであります。
仏教では、仏さまや菩薩さまが、仏教の教化を受け入れることのできない人を救うために、本来の姿をわざと隠し変えて、人間界に現れることを言うようです。
仏教では、仏さまや菩薩さまが、仏教の教化を受け入れることのできない人を救うために、本来の姿をわざと隠し変えて、人間界に現れることを言うようです。
世俗とは離れて暮らすといいながら、山中に隠棲することなく、市井の中で、それを求めて暮らす有様ですね。
少し憧れますね。
少し憧れますね。
なかなか、山中に隠棲することは不可能です。
ただ、花を見て、その季節を感じ、それを愛でることは、何より心が穏やかになります。
このように暮らせたらどれだけ素晴らしいでしょうね。
でも、なかなか現実的ではありません。
ただ、花を見て、その季節を感じ、それを愛でることは、何より心が穏やかになります。
このように暮らせたらどれだけ素晴らしいでしょうね。
でも、なかなか現実的ではありません。
日々の暮らしの中に、ささやかな幸せはあります。
ありがたい仏縁に感謝して、暮らさせて貰っています。
ありがたい仏縁に感謝して、暮らさせて貰っています。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。
最後まで、梅雨の合間に咲いた紫陽花の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。