''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

作州津山の城跡に思いを寄せて 家族会 より。 

新型コロナウイルス感染が、国内でも増えています。 

やはり、国内での検査が少なすぎるとの海外よりの指摘を受けて、検査数が増えると、ヨーロッパみたいに、感染者数の増加が著しくなるかもしれません。 

 

政府の感染者数増大から、東京オリンピック開催延期・中止の構図に持ち込みないための浅知恵に思われます。 

こうした政府後ろ向いた対応が外国諸国から揶揄される思います。 

 

浅知恵と言えば我が家の家族会です。 

半年も前から家族会の旅行計画を企画していました。 

郷里の父母は、このご時世ですから、参加取りやめにして、私たち家族3人で、当初の計画を遂行しました。 

 

この2日の行先は、岡山の作州津山でした。 

宮本武蔵の関連もある地です。 

自動車で出かけて、なるべく無用の立ち寄りもしないでホテルに向かう家族旅行でした。 

 

我が家でも、コロナを恐れて、子供とともに籠城していましたが、暫し、コロナ退避と言うのか、コロナ疎開とまでは、言わない程度の感染者なし県への逃避行をして来ました。 

 

マスクに手袋、消毒アルコールと、感染をしないさせない、対応の配慮はしたつもりです。 

4歳児ゆうゆうは、親子3人での旅行に終始ハイテンションでした。 

この2週間以上、家での籠城は、なかなか子供の精神的なストレスがあったのだと感じました。 

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ホテルに入るとどこにも出かけずに、窓からの風景を楽しめました。 

あれば、津山城跡ですね。 

大変立派な城郭跡です。 

さどや立派な城だったことは推測できます。 

 

慶長8年(1603)美作一国18万6500石の国持大名森忠政が足かけ13年の年月を掛けて「鶴山」を「津山」に代えて、津山城を完成されたようです。 

森忠政とは、信長の近習、森蘭丸こと、森成利(もり なりとし)の末弟だと聞きます。 

森蘭丸と言えば、信長の小姓のイメージが強いですが、寛永伝』には5万石とあるように、金山城主の大名でしたね。(各務元正 城代として統治) 

享年18歳ですから、名目だけの城主大名だったのかしれません。 

森忠政公は、運よく美作一国18万6500石の国持大名になったのですから、いろいろと周りに目配せできる名君だったのでしょう。 

 

そんな方の作られた津山城は、名城だったと城跡からでも、推測できます。 

後に、城主は、森家から松平家に移ります。 

そんな経過の中でも、やはり、この城は名城に違いないです。 

今も、市内の中心地にそびえる城跡は、情緒があります。 

 

帰路に、津山城にも立ち寄り、写真撮影して、すぐに大阪まで帰って来た次第でした。 

ホテルからの景色が良くて、吉井川を挟んだ津山城跡は、非日常素敵な時間を過ごせました。 

また、コロナの終息した来年の春、桜の時期に、津山に行きたいですね。 

 

暫しのコロナから逃避になりました。 

子供元気になりました。

ありがたいことです。 

 

親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。   

ありがたいことです。   

   

ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。   

ありがたいことです。   

   

日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。   

神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。   

ありがたいと感謝です。   

   

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