''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

我が家の食卓ものがたり おかずサラダ ソーセージ入りのポテトサラダの小鉢

時短手抜きをしながらも、美味しいモノが食べたいです。
相反する事ながら、そんなこともあります。
人間と言うモノは、業の強い生き物です。
関西では、腹立つことを「業が湧く」と言います。
まさに、人間の持って生まれた業が、自然発生すると言う事でしょう。


人間が、本質的に、性善説かそうでないかを論じる議論の元かもしれません。
キングダム760話では、「人間の本質が火である」と李信将軍の本能からも、いろいろな事が垣間見られます。
その上で、人間には不変のモノがあるとして、その火を「命の火」と「思いの火」の2つに分類しながらも、人の本質が火であると比喩して、本能型の武将としての持論を述べていますね。


私も、論文試験で、「○○とは自分にとって何ですか?」と言うような漠然とした問いに対して、よく「宇宙」であると答えたりして、先生を煙に巻いて、「優」の評価を頂くことが多かったです。
例えば、「数と自分にとってなんですか?」と3つほどある問題の最後に合って、これしかないと回答を書いたことがあります。

 

そうでしょう。
数と言うモノ、漠然としていますが、そんなもの存在しないんですよ。
もっと言えば、1という数字はは、あくまでも仮定の「1」なんです。
個数なら、1個、2個と数えられますが、数となると別物です。


1の次は2ではありません。
1から2へ数の中に、無限の宇宙があります。
例えば、1.000000000000000000000000000000 中略 000001となり、無限です
1ですら、その一点を特定するのは、無限に発生する少数点以下の数と対峙しなければなりません。
そんなこと考えたら、1から2には無限の数の中て到達は出来ません。
あくまでも、数学と言う仮定の話の中で、1、2、3、4、5と続いて行くわけです。


禅の言葉、禅語の中に、「万法帰一」、つまり、「万法が一に帰す」というのがあります。
萬法とは一切の存在は因縁によりて生ずる自然の理法であり、一とは万物の根源であり、大宇宙のすべてのものは一から生じ、一に帰するとされる。


数の始まりは、「1」とは、仏教的らしい発想です。
ですから、日本人の発想に、「0」と言うモノが出なかったのでしょう。
それが、インドでは、「0」の発明によって、数学が一躍飛躍したと言えますね。


日本でも、江戸時代に、中国の伝統数学の系譜を引く日本の算術体系としての和算(わさん)はと言うモノが盛んであったと聞きます。
特に関孝和によって、一躍高度に発展したのは、有名な所です。
微分積分的な数学の域に達していたとも聞きますが、やはり、西洋的な「0」が無ければ、これらの域を超えた数学の発展には至らなかったと思います。


現代社会において、人が性善説に立つのかどうかという点に関して、性善説に立つとは言えないと思いますね。
猟奇的な犯罪が多ぎますよ。
天台の妙義の「一念三千の法理」と言えば、難しくなりますが、「三千世界」と言えば、ワンピースの剣士ゾロの必殺技です。


元ネタは、この一念三千ですね。
それに、有名な都都逸の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」でも使われていますし、この作者も高杉晋作の作と云われています。


三千世界の「三千」とは、十界互具・十如是・三世間、つまり、10×10×10×3=3000と言う事になります。
その中でも、十界互具、つまり、人間の世界も含めて、それぞれに10の界が存在します。


ですから、人間世界の下位の世界に居たモノが、間違って、人間の魂とすり替わって、人間の体内に持ったまま、人として生まれて来ると、これは見た目は人でも、魂は餓鬼や畜生なら、その世界の人間らしいものが生まれてい来るはずです。
何度も輪廻している人間世界の魂でなく、初めて間違って人間世界に魂がやって来たなら、当然猟奇的な犯罪も、納得できます。
動物でも、飼い主の徳を得て、人間世界に生まれる話は、よくあります。


これだけ、世界的な人口が増えると、その分の人間の魂が枯渇すると感じます。
勝手な言い分ですが、人口が多くなると、大きな戦争が起きるようなものです。
自然淘汰なのかは不明ですが、仏教的な観点、特に法華経的な立場に立てば、輪廻する以上、魂の存在が前提になっています。


お釈迦様の過去世の話を、法華経では多いです。
いろんなところで、縁に繋がっています。
仏教的な「空」とは、縁起でもあるとも言えます。
空の概念の方が大きいので、縁起が「空」とは言えないかもしれませんけどね。


その上で、人が性善説に立つのかどうかは、一律的な答えはないはずだと思います。
博学の諸兄から、お叱りを受けることもありましょうが、ここは薄学の凡夫の知恵薄い事とお許しください。


そもそも、性善説であると信じたい人間が多いでしょうが、議論の根底が、キングダムの秦の時代とも、違います。
中国には、多くの素晴らしい思想があります。
また、そうした時代には、孟子孔子等天才的な有能な思想家が生まれて来るものです。


でも、現在社会では、「すべての人が、無条件に善人」と言うのは、誤解であるでしょう。
法治国家でありながら、善と言う絶対観のモノも存在せずに、未だ猟奇的な犯罪が後を絶たないです。
個人も、法人も、庶民も、裁判官も、政治家もです。


個人だけでなく、健康被害の報告がかなり以前からあったのに、それを無視して回収せずに、人の命を取り去り、多くの方が入院しています。
裁判官も、裁判官関係者を中傷誹謗して、弾劾裁判になっても、反省しない有様です。
同様に、脱税したら犯罪として処罰されるのに、政治家は訳の分からない所得があっても、申告しなくて脱税しても、処罰されない。


すでに熟された法治国家ではない蛮行です。
秦の時代から、2000年経っても、これですからね。
明らかに、性善説でないはずですよ。


キングダムの李信将軍の話は、何とも言えず、本能型と言う特殊なモノの考え方ながら、その場にいた多くの知識人に、何かを伝えたと思います。
もちろん、法の必要性は、明らかです。


訳の分からない話が続いたので、食事の用意は、時短手抜きにやりたいところです。
ただ、ポテトサラダは、どうも時間がかかります。
ポテトを冷ますして放置プレー時間の時間が、時短手抜きとなりません。
時に、それでも家でポテサラが食べたくなります。
この日も冷蔵庫と相談しましたが、ハムがないと言うので、ソーセージで代用しました。
ソーセージを輪切りにして、フライパンで過熱して、別皿にとって更に冷まします。
時短手抜きの真逆です。
その間に、メインの用意をします。

ソーセージ入りのポテトサラダの小鉢です。
ゴロゴロしたポテト、胡瓜、オニスラ、そして、ソーセージです。
いつものように、リンゴ酢とレモン汁はたっぷり入ります。
クエン酸効果で、体内のアルカリ化も、健康志向です。
彩に、トマトを添えました。


やはり、食べてみると、ハムも美味いが、ソーセージも美味いです。
いろいろなパターンで出来そうですね。
それらを模索するのも、食事作りの担務の楽しみです。
美味しく食って、健康になれるなら、こんな幸せはないはすです。
ありがたいことです。


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ありがたいことです。            
            
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